まいど、あーくんです。
何だか、きな臭いですね。
嫌な感じです。
毎日のように、何かしら隣国とのもめ事の記事を目にします。
私は歴史家でも政治評論家でも何でもありませんので、そこは何も言う気ないです。
私は浅い意見しか言えませんし、色々な意見が出て当然なので。
日本はまだ色々な意見が出ているということは自分がどんなに受け入れがたいと思っていてもまだ健全だと思います。
向こうは向こうなりの主張もありますので、どっちが正しいなんてのは視点も変われば180度見解が変わります。
感情的になったところで何も得しません。
今回は政治評論の視点ではなく、社会心理学におけるもっとも有名な理論である「認知的不協和」をからめて話していきたいと思います。
この理論が大変面白かったんですよ。
もくじ
「認知的不協和理論」とは?
専門用語が多かったのでなるべく、かみ砕いて例を交えて話します。
「認知的不協和理論」とは、
1⃣、矛盾(不協和)の存在は、心理的に不快だから、その矛盾を低減し協和を獲得することを試みるように、人を動機づける。
2⃣、矛盾が存在している時には、それを低減しようと試みるだけではなく、さらに人には矛盾を増大させると思われる状況や情報を、すすんで回避しようとする。
と説明できます。
この2つを要約しますと、自分や自分の住んでいる環境での知識や見解、信念の間に矛盾が生じてしまう場合、当然私たちは不快に感じて、何かしらそのような矛盾を低減しようとしたり、矛盾を生じさせる源から回避したりすることで、自分の内部から矛盾を取り除こうとする理論。
私でもよくあります。
「絶対にこうだ」と考えていたことが、全く違う意見に論破されたとき「いや、でもね」みたいに自分をどうにかして正当化しようとする時が!!(苦笑)
例:煙草の喫煙行動
まあどの本でも書いてあると思いますが有名な例として挙げられるのが、「煙草の喫煙行動」です。
ヘビースモーカーが「煙草は健康を害する」という情報を耳にしたときどういう風に行動するか?
1⃣、たばこをやめて、認知間の関係が協和的になるようにする。
当然、害があるからタバコをやめて矛盾点を解消することで解決を探る。
2⃣、もう一方の認知(情報)のほうを変える。
私も昔、煙草を吸っていたのでよくわかるのですが、これは「煙草は肺がんを起こす本当の原因なのか?」「確たる証拠はあるのか?」「ずっと吸っている人でも問題のない人は沢山いる」と思うことで自分を納得させる。
この方法でも自分への矛盾を解決することが出来ます。
例:なぜ新興宗教はなくならない?
ここからが特に面白くなります。
この理論を提唱したフェスティンガーは実験から得たデータをより確証を得るために新興宗教に潜入調査します。
新興宗教を外から見てる一般人からしたら「終末思想」やらの教えを信じるなんて客観的に見ておかしいのになぜ信じて、より邁進してしまうのだろうと考えてしまいます。
しかしフェスティンガーは熱心な信者ほどむしろ自分の信念を確信するようになり、布教活動にもより熱をあげると予測しました。
なぜなら信者の信念は確信に満ちたものだから、容易には揺らがず、他人に公言したり、全財産を渡すといった取返しのつかない状況にしてしまっている場合は特に、信念を変えることはそれまでの自分の生き方を否定することにもなりかねないからです。
1番目の考えを変えるのはかなり難しい、そこで行われるのが、2番目のもう一方の認知を変えることである。
新興宗教で言うと「終末思想」は外れておらず自分の信念は少しも間違っていないと思い込むという選択をとるようになる。
1人、2人レベルだと客観的事実を語ることによって矛盾点を考えるようになるが、団体になればなるほど、まわりに共通した価値観の人を固めることが容易にできて、矛盾を解消してくれる(より自分の考えは正しいと確信できる)。
「僕(私)の意見はみんなと同じ意見だ、だから正しいんだ」って。
そこで疑問が湧いてきません?
「そうは言っても(終末思想)などの予想が外れたら、あれっ?おかしくない?」とか普通考えない?って。
ここが人間の面白いところなんです。
調査結果はより活動が活発化したのです。
自己の矛盾を解消するためにより一層努力を始めたのです。(悪く言えばつじつまを合わせようとした)
矛盾が大きくなればなるほど、それを解消するために「ここの一部は予言が当たったから、やっぱり本当だ」という風に矛盾を解消するのです。
さてメチャクチャ端折りましたが、これがおおよその「認知的不協和理論」です。
これは汎用性が物凄い高い理論です。
まとめると自分の信念(心の中)にある矛盾を解決するというただそれだけの動機が第3者から見れば極めて不合理な行動や心の変化をもたらしてしまう。
司法までもが自分達の矛盾を解決させる力が働いている?
人間の認知なんてそんなものだからこそ、誰にでも平等である、感情を排した法律というものが存在するのですが・・・。
これを読んでなんか感じません?
明らかな矛盾点が山ほど存在するのに、外部からは理論的に分かりやすく説明するのにこちらの意見は少しも組み入れず全く独自の見解を話す。
なぜならそれは子供のころからそうだと教えられ、別の意見は決して触れることができずに(多様な意見や考えを許容できる環境ではない)育ち、大人になり違う意見があると目にしたときはそれはもう自分の存在意義くらいに刷り込まれているためにどんなに矛盾していてももはや変えることが出来ない。
信念を変えることはそれまでの自分の生き方を否定することにもなりかねないから・・・。
極めて不合理であろうが、それはもう自身のアイデンティティの一部となってしまっているから(不特定多数に広めないと矛盾が解消できない)。
その矛盾点を解決するには、より一層宣伝(布教活動)して信者を増やさなくてはならない。
ここが真実だから、ここも真実だからと・・・
何か社会心理学的視点で理解してみると「なんだかな・・・」という切ない気持ちになります。
本当の意味で解決するには生半可ではもう絶対には出来ない。
なぜ初期段階で手を打たなかったのか?
謝罪する・しないという次元ではもう無いのかな?と考えさせられます。
だってそれはもう宗教とかと同じで理論的に正しい正しくないとかではなく、社会や自分の心の一部になってしまっているから。
目的が自分をどう正当化するかに変わってしまっているから。
今までの自分の信じてきたものを根底から覆すなんてほとんどの人には出来ません。
改めて言いますが、私はどちらが正しくて、どちらかが間違っているとはこの中では一つも言いませんよ!!
私たちがそうなってしまっているかもしれませんからね。
私は客観的事実というものも信じていません。
人間は脳で理解してから見たことを話します。
カメラのようにでは無く、その時必ず自分の脳のフィルターが働いてしまうからです。(学術的見解(理論)は別ですよ)
こういった理論が存在していて、「人間とはこういう不完全な生き物なんだ」とお互いが少しでも理解が進めばいいよなと思っちゃうんですよね。
もちろんこの理論だけですべてが理解できるほど単純ではありませんよ。
「権威への服従」が働いているのかもしれませんし、「同調行動」が働いているのかもしれません。
複数の理論と利権が複雑に絡み合って問題がより困難になっているのが事実なのでしょう。
ただ今回はこの理論(認知的不協和理論)が面白かったのでこの理論を中心に紹介をしたわけです。
★フェスティンガー(著)水野博介(訳)「予言が外れるときーこの世の破滅を予知した現代のある集団を解明する」から一部抜粋しました。
コメント
終末論というのはいつ来るか分からない事に意味があるわけで、それが永遠にこないだろうから永遠に有効なわけで
それを終末はまさに今だ。イエスはもう再臨した。ブッダはすでに再臨したそれは私だとか言い出すからカルトと言われるのであって。
deefeさん:こんばんは。
隣国問題も宗教と同じで妥協点などあり得ない。
解決よりも全面的な受け入れを目指しているように見えます。
お互いの妥協点を見つけて解決を目指すべきなのに、宗教と同じで妥協点は精神の中にあるから永遠に解決しませんね、これは。
相手の国も日本の戦後にようにすべての価値観ごと劇的な変化がないともうおそらく無理ですね。
イエスのいう事をお互いがやればいいだけど。敵を赦せというのを
でも無理そうだな